ドキュメンタリー映画 獄友(ごくとも)始動!

映画のこと

シリーズ3作目だからこそ、できることがあるはずだ!

金聖雄 監督

photo_kimu2.jpg「なぜ再審が始らないのだろう」
「なぜ彼らはあんなにまっすぐに生きているんだろう」

2本の映画をつくって、今考えることは、様々な「なぜ!?」だった。いつも言うが、私はジャーナリストでもなく冤罪専門の映画監督でもない。何か使命感に駆られて映画をつくっているわけではない。それでも映画づくりの中で嫌と言うほど権力の非道を思い知らされた。同時にそれらを引き受けて生きる人たちの魅力に引きつけられて映画をつくってきた。

「また冤罪映画!?」と思う人もいるだろう。しかしどうしても描かなければならないものがある。

彼らは人生のほとんどを獄中で過ごした。いわれの無い罪を着させられ、嘘の自白を強要され、獄中で親の死を知らされた。奪われた尊い時間は決して取り戻すことができない。しかし、絶望の縁にいたはずの彼らは声を揃えて言うのだ。「"不運"だったけど、"不幸"ではない、我が人生に悔いなし」と。

冤罪など、許されるはずがない。

しかし、彼らにとって"獄中"は生活の場であり、学びの場であり、仕事場であった。まさに青春を過ごした場所なのだ。「冤罪被害」という理不尽きわまりない仕打ちを受けながら、5人は無実が証明されることを信じ懸命に生きたのだ。時に涙し、怒り、絶望し、狂い、そして笑いながら...。

冤罪被害者の横のつながりはほとんどなかったが、「足利事件」の菅家さんの釈放をきっかけに、彼らは同じ痛みを抱えるものとして、お互いを支え合うようになった。はじめて彼らの話を聞いた時、どんなに重い話をされるだろうかと緊張し身構えていたが、会った瞬間、笑いをこらえることができなかった。自分たちのことを「獄友(ごくとも)」と呼び、獄中での野球や毎日の食事や仕事のことを懐かしそうに語り、笑い飛ばす。そこには同じ「冤罪被害者」という立場だからこそわかり合える特別な時間があった。そしてなぜ自白したのか、獄中で何があったのか、娑婆に出てからのそれぞれの人生を自ら語ってくれた。

奪われた時間の中で、彼らは何を失い、何を得たのかを描き出す。
そこからあぶり出されるものは、司法の闇であり、人間の尊厳であり、命の重さだ。

今"ごくとも"たちは、"青春"のまっただ中にいる。
ぜひ、一緒に作品づくりに参加していただけるならば、うれしい限りである。

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