ドキュメンタリー映画 獄友(ごくとも)始動!

冤罪事件

布川事件

茨城県利根町布川で1967年8月、大工の男性(当時62歳)が自宅で殺された。茨城県警は80人体制で捜査を進め4名を別件で逮捕したが、事件に関与した証拠は得られなかった。捜査が手詰まりになる中、県警は桜井昌司さんと杉山卓男さんを別件逮捕。警察の留置場での長時間に及ぶ取り調べの末、虚偽の「自白」をさせ、検察は物証がないまま起訴した。

公判で桜井さんらは無実を訴えたが、1970年、一審で無期懲役判決を受け、1978年、最高裁で確定した。2001年、第2次再審請求を申し立て、2005年、水戸地裁土浦支部が再審開始を決定。2009年12月15日の最高裁決定で再審開始が決まった。

有罪から無罪へ司法判断が変わった決め手は、有罪確定後に検察が開示した証拠だった。近所の女性の目撃証言、残された毛髪が2人のものではないという鑑定書、取り調べの録音テープ。検察は無罪を示唆する証拠を隠したまま、起訴していたことになる。録音テープにも編集の跡があることが分かり、高裁決定は「自白は取調官の誘導をうかがわせる」と指摘。当初は容疑を否認していた2人を、拘置所から、警察署内の留置場に逆送して「自白」を得た経緯も、高裁は「虚偽の自白を誘発しやすい環境に置いた」と批判した。

2011年5月24日、水戸地方裁判所土浦支部にて無罪判決が下された。

狭山事件

1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高校生が行方不明になり、脅迫状がとどけられるという事件がおきました。警察は身代金を取りにあらわれた犯人を40人もの警官が張り込みながら取り逃がしてしまいました。女子高校生は遺体となって発見され、警察の大失敗に世論の非難が集中しました。捜査にいきづまった警察は、付近の被差別部落に見込み捜査を集中し、なんら証拠もないまま石川一雄さん(当時24歳)を別件逮捕し、1カ月にわたり警察の留置場(代用監獄)で取り調べ、ウソの自白をさせて、犯人にでっちあげたのです。地域の住民の「あんなことをするのは部落民にちがいない」という差別意識やマスコミの差別報道のなかでエン罪が生み出されてしまったのです。

一審は死刑判決、二審では無期懲役判決が確定。石川さんはただちに再審請求を申し立てましたが第一次再審請求はまったく事実調べもなく棄却。再び1986年8月に第二次再審請求を東京高裁に申し立てました。石川さんは再審を求める中、1944年12月仮出獄、31年7ヶ月ぶりに狭山に帰りさらに闘い続けます。世論も高まり、国際人権規約委員会が「弁護側がすべての証拠にアクセスできるよう法律、および実務を改めること」を日本政府に勧告しますが、1999年7月またも事実調べを行うことなく、再審請求を棄却しました。

そして2006年5月みたび、第3次再審請求。なかなか再審の扉は開きません。しかし2009年9月から三者協議が開かれ、狭山の闘いに光りが差し込みました。2回目の協議で門野裁判長が証拠開示勧告。2010年5月の三者協議で東京高検が開示勧告を受けた8項目の内5項目36点の証拠が開示され再審へ向け確実に一歩前進しました。石川さんをはじめ狭山の闘いは、事件の公正な裁判―再審開始を求めるとともに、 あらゆる差別や冤罪、人権侵害をなくし、取調べ可視化・司 法民主化を求める運動としてはばひろくすすめています。

袴田事件

1966年6月30日未明、静岡県清水市(現静岡市清水区)で、味噌会社専務一家4人が殺され、放火された事件。

味噌会社の従業員だった袴田巌さんは「元プロボクサーならやりかねない」という偏見により逮捕され、拷問を伴う長時間の取り調べにより、「自白」を強要させられました。袴田巌さんは、裁判では一貫して無実を訴えましたが、1968年静岡地裁で死刑判決、1980年最高裁で死刑が確定。1981年以来、再審を求め続け、遂に2014年3月27日、静岡地裁(村山浩昭裁判長)は再審開始を決定しました。その内容は「証拠はねつ造」「これ以上の拘留は正義に反する」とする画期的なものでした。この日、袴田巌さん獄中48年目にして東京拘置所から解放されました。しかし、3月31日、静岡地方検察庁が東京高裁に即時抗告したため、再審開始は先延ばしとなり、いまも、死刑囚のレッテルは貼られたままです。

足利事件

1990年5月12日、栃木県足利市のパチンコ店で行方不明となった女児(当時4歳)が、翌日、パチンコ店近くの渡良瀬川の河川敷で死体で発見された事件。犯人のものと推定される体液が付いた女児の半そで下着も付近の川の中で見つかり、わいせつ目的の誘拐・殺人事件とされた。

足利市ではこの事件の前、2件の女児殺人事件が起きていたこともあり、栃木県警は180人態勢で徹底した捜査を進めた。幼稚園の送迎バスの運転手で、事件現場のパチンコ店の常連でもあった菅家利和さん(当時43歳)を疑った県警は、菅家さんを事件半年後から1年間尾行したが、怪しい点はなかった。

1991年6月、県警は菅家さんが捨てたゴミ袋から体液の付いたティッシュペーパーを発見。警察庁科学警察研究所(科警研)にDNA鑑定を依頼し、科警研は同年11月、菅家さんと犯人のDNAの型が一致したとする鑑定書をまとめた。これを受けて県警は、12月1日、菅家さんを任意同行し、深夜に及ぶ尋問の末、犯行を認める「自白」を引き出し、21日、わいせつ目的誘拐と殺人、死体遺棄の容疑で逮捕した。

検察は、先に起こっていた2件の殺人の「自白」は「嫌疑不十分」として起訴しなかったが、パチンコ店から行方不明になった女児殺害についての「自白」は疑うことなく菅家さんを起訴。

菅家さんは第1審の途中から否認に転じたが、1993年7月7日、宇都宮地裁は無期懲役の判決を言い渡し、東京高裁も控訴を棄却。2000年7月17日の最高裁判決で有罪が確定した。菅家さんは2002年12月25日、宇都宮地裁に再審を請求。地裁は請求を棄却したが、即時抗告による東京高裁での審理でDNA再鑑定が認められ、その結果、女児の下着に付着していた体液と、菅家さんのDNAは一致しないと分かった。1991年の科警研鑑定は、当時としても間違いだった可能性が高い。再鑑定結果を受け、東京高検は菅家さんを刑務所から釈放(再審前に釈放するのは異例)。2009年6月23日、東京高裁は再審開始を決定した。2010年3月26日に無罪確定。

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